「他人事ではない戦争」
(オピオピオ 2006年12月)
「ドーン、ドーン」と地面を揺るがすような爆音とともに数発の迫撃砲が近くに撃ちこまれてきた。カメラを掴んであわてて宿の外に飛び出した僕は、逃げ惑う人々の流れに逆らいながら着弾地点に向かっていく途中、頭をかかえ泣き叫ぶ一人の少女に遭遇した。
少女の名はギフト。
砲弾は彼女が滞在していた難民キャンプを直撃し、テントにいた彼女の姉弟4人の命を奪った。数年前にすでに両親を亡くしていたギフトは、この一瞬で残った家族もすべて失い、孤児となってしまった。2003年夏、リベリア内戦中のことだ。
戦場での忘れられない経験はいくらでもある。
米海兵隊に従軍しながら、アメリカのイラク侵攻を取材していたとき、僕が撮影していた場所から道路を隔てほんの20メートルほど先に砲弾が落ちた。砲弾の破片を浴びた兵士が2人即死したが、僕はその直前まで、道路のどちら側に立つか迷っていたのだ。たまたまこちら側にいたのは写真を撮るのに見晴らしが良かったからで、単なる運にすぎなかった。
地面にひれ伏したその兵士の死体を仲間達が抱え上げようとしたとき、ちぎれかけた首のせいでその頭部がダラリと垂れ下がった。二十歳そこそこのまだ若い兵士は、死の直前まで仲間とトランプをしていたのか、彼の足元にはカードが一枚寄り添うように落とされていた。
その残酷さを眼のあたりにした一人の人間として、どんな理由付けをしようとも、僕は戦争を「絶対なる悪」であると考える。戦場という特殊環境のなかで、砲弾を発射したり、マシンガンの引き金を引く人間たちには「人を殺す」という罪の意識は希薄だ。戦争は殺人を正当化してしまうからだ。
日本では現在、自衛隊を軍隊として合法化するために、憲法第九条を改定しよういう議論がなされている。
「戦争の放棄」、「戦力の不保持」そして「交戦権の否認」を柱とした平和憲法を改め、自衛隊を「外国で戦える軍隊」にしようというわけだ。これはすなわち、日本人が他国に赴き、その国の人々を殺し、さらに自分もそこで殺されるかもしれない、といった可能性を合法化するということに他ならない。
議論をすること自体には賛成だが、憲法改定を推進する前に、戦場の「現場」のことを思いを寄せてほしい。家族を一瞬にして失ったギフトのような子供達や、前線であっけなく殺されていく兵士たちのことなど、他人事としてではなく考えることが必要だと思う。将来、自分自身の息子や娘が、戦場に身を置かなくならない立場になることもあり得るのだ。。。それでもあなたは日本を「戦争のできる国」にしたいと思うだろうか?
国際貢献は、それぞれの国にあったやり方でおこなえばいいと思う。
経済大国である日本は、軍隊など派遣せずとも技術的および金銭的援助でいくらでも国際社会に貢献できるはずだ。第一次湾岸戦争のときにはそれで「金だけだす日本」と非難されたが、「我が国には平和憲法がある。武力派遣はしない」と毅然とした態度を貫けばいいではないか。
唯一の被爆国である日本が、信念をもって明確な態度で平和主義を示すことによって国際社会から強い信頼を得て、さらには将来起こりえる武力衝突を対話によって防ぐことも可能になるはずだと思う。
平和と思われる日本にいても、戦争がもう他人事では済まされない時代になっている。こんな時代だからこそ、国際社会のなかでのこれからの日本のあり方、というものを、十代、二十代の若い人たちに真剣に考えてもらいたいと願う。
