MOKU 2010年8月号 インタビュー

「生の現場、生きる実感」

報道カメラマン 高橋邦典(たかはし・くにのり)

六十五年間、戦争が起こらなかった国。しかし、その日本で年間三万人以上が自殺している。閉塞感を感じて生きている人も少なくない。
かたや、お金と食糧を手にするために兵士となる少年も、この地上にいる。「学校へ行きたい」と思いながら、亡くした家族の顔を思い浮かべて銃を手にしている。銃弾が飛び交うそこが彼にとってのフィールド。
地球上には、そうした日本人の感覚からは程遠い現実が、今日も展開されている。
人は、話し合いで争いを回避できるほど賢明ではないという現実。人生を左右したものが、たまたま生まれた環境であるという現実。
そうした人間の事実を見てきた報道カメラマン・高橋邦典氏に聞く、平和とは何か、争いとは何か、生の実感とは何か――。
われわれは、自らの生の現場が、生きる実感を伴うものとなっているだろうか。

■プロカメラマンになる前に「自分の目で見てみたい」

 写真の仕事をしようなんて、学生のころは考えてもいませんでした。一浪して大学に入ったものの、夜のアルバイトが生活の中心になって、三年生でやめてしまい、自分の店を出す夢もわりと簡単に消えて、何をやりたいのか自分でも分からない状態でした。唯一続いていたのは英会話学校だけ。今ではアーチストとなっている従姉が、当時ボストンで絵の勉強をしていたこともあって、アメリカがどんな国か見てみようという気持ちと語学の勉強を兼ねて、ニュージャージーに二カ月間留学しました。一九八九年でしたから二十三歳のときです。
「アメリカは良かったなあ。また行きたい」という思いが残ったのも、いいところしか見ていないのですから当然です。帰国後も、自分が何をやりたいのか分からない状況に変わりはなく、本を読んだり、美術館へ行ってみたりと、外からの刺激を受けることで何かを探そうとしていました。
 そんななかで、どういうきかっけで手に入れたのか忘れてしまったけれど、青木富貴子さんの『ライカでグッドバイ』という本に出逢いました。戦場カメラマン・沢田教一さんの伝記で、彼の写真もさることながら、率直に生き方が「すごい」と思った。米軍の兵士たちの中に入って、彼らが恐れている場面であっても、沢田さんは立ち上がってシャッターを切る。さまざまな戦場で誰にも撮れないような写真を撮る。ピューリッツァー賞を受賞した、銃弾を避けて川を泳いで渡る母子を撮った「安全への逃避」なども、そんな中で沢田さんが遺したものです。カンボジアで取材中に銃弾に撃たれて三十四歳で亡くなったけれど、生き様も含めて「この人みたいになりたい」と思いました。
 写真を甘く見ていたんですよ、シャッターを押せば誰にでも撮れるんだと。だけど、年下の連中と一緒に写真の専門学校に通うのもいやだったし、いっそのことアメリカで写真の勉強をしようと考えました。コンビニのバイトで貯めた資金を持って再度渡米、写真学校で二年間「報道写真」を学びました。卒業すると、ボストン在住の日本人が創刊したコミュニティ雑誌の写真を撮ったり記事を書いたりしながら就労ビザを取得して、イベントの撮影などもやりながら何とか食っていた状態でした。
 そして、九二年に以前から行ってみたかった南アフリカへ行くチャンスが出てきました。当時はまだアパルトヘイト政策が完全には終わっていないころで、ボストンにあった反アパルトヘイト団体が送る使節団に参加させてもらい、渡航費の一部を援助してもらう変わりに撮影の仕事をやらせてもらうことにしました。朝日新聞社の伊藤正孝記者が書いたアパルトヘイトのルポを読んで以来抱いていた「自分の目で南アフリカを見てみたい」という念願がそうして叶いました。ただ、この使節団の滞在期間は二週間だったので、ほかのメンバーが帰国した後も残って二か月半、写真を撮り続けました。これが、今にして思うと、自分が写真家として独り立ちした原点でした。
 このときの写真がきっかけで、AP通信の仕事を請けるようになり、ここが僕の本当の意味での報道写真のプロとしてのスタートだと思っています。それ以降、九六年にはボストン・ヘラルド紙という新聞社の正社員となり、二〇〇四年にはシカゴ・トリビューン紙に移りました。 二〇〇九年に社を離れ、インドへ住まいを移してフリーランスになりました。

■他人の不幸で飯を食う仕事、それをポジティブに還元する

 南アフリカのときから今まで、自分が撮ろうとしているものは変わっていませんが、撮るときの心構えは違ってきました。転機となったのは、二〇〇三年のイラク戦争とリベリア内戦です。
 イラクのときは、米軍に従軍し、部隊と同じ行動をとりながら、銃弾が飛び交い、兵士たちの表情を間近にみる状況の中で「沢田さんも、こんな感じだったのかなあ」と思いながら撮っていました。リベリアは、わずか二週間という短い間に、それまで最も多くの人間が傷ついたり死んでいく様子を目のあたりにしました。そのときの感情は、こんなことが本当に起こっていいのか、という憤りでした。リベリア人たちは、アメリカの海兵隊の派兵をブッシュ大統領に要請して、内戦の仲介に立ってほしいと願っていた。しかし、ブッシュは「送る」と言いながらなかなか送らなかった。そんな中、難民キャンプに三発の砲弾が落ちて二十人以上が殺され、難民たちの間から猛烈なブッシュ批判が沸き起り、彼らはその死体をアメリカ大使館の前に積み上げる非難行動に出ました。
 そんな現実を目の前にして、カメラマンとしての義務というか使命感を初めて実感していました。それまで、いい写真を撮りたい、賞を取りたい、興味のあるところへ行ってみたい、という自分のために撮ることがモチベーションだったけれど、ここにいるからには、この現実の目撃証人として、まずアメリカに発表する義務があると思った。すでに、自分もアメリカに住んで十年以上が経ち、アメリカ人の気質も分かっていましたし、アメリカのメディアに発表する立場にいることも、余計にそう思わせたのかもしれません。
 そして、この義務とか使命感がないと、自分を説得できなくなる場合があることも分かってきました。僕らは、ある意味では、他人の不幸で飯を食っている。僕は紛争地の取材もするけれど、自分のことを戦場カメラマンだとは思っていません。いずれにしても、自分の仕事に負い目がある。だから、なおのこと、自分の仕事が社会に対してポジティブなかたちで還元できたときに、他人の不幸で飯を食っていることのバックボーンが出来るんです。そのバックボーンが僕の場合はイラクとリベリアでつくられた。
 リベリアで出会った少年兵モモ(男の子)、家族をなくしたギフト(女の子)、右手を吹き飛ばされたムス(女の子)のその後を追って、二〇〇五年にシカゴ・トリビューンで特集記事を載せました。その記事がきっかけで、ギフトはアメリカのある家庭の養子となり、ムスもシカゴに来ることができました。日本でも、写真展を開催してもらうことができて、そのときに集まった募金でリベリアの子どもたちが学校に通うこともできるようになりました。子どもたちのその後の「結果」を今の段階で簡単に言うことはできないけれど、そういうふうに、自分の写真がきっかけでポジティブな活動ができたり、子どもたちの人生に変化が生まれたりということに手助けができたことは、写真の力を認識しなおしたり、新たなモチベーションになったり、自己満足以外にこういうこともできるんだという実証にもなりました。

■全体幸福のための戦争などありえない

 僕は、日本には基地は必要ないという考えです。基地であるからには、戦争の拠点となるもので、そこには兵士がいる。目的は戦争にある。これは事実です。だから、基地は不要。どんな理由があれ、殺人を正当化する戦争は絶対悪です。僕の考えは、感情的だけれど、経験的なところから出てくるものです。経験というのは、僕のカメラマンとしての現場の経験です。そこが、自分の思想のもとになっている場所です。
 そういう経験の場所に立って発言する僕と、世界を肌感覚で感じたことのないまま理論的に考えて言ってくる人とでは意見がかみ合わないこともあります。
 よく言われる「中国が攻めてきたらどうするのか」「北朝鮮がミサイルを撃ってきたらどうするんだ」という言い方、これが日米安保の傘へと論理が展開していくパターンなのですが、確かに可能性の論理で言えばゼロではないかもしれないけれど、僕の経験や見聞したことを考え合わせると、現実問題として中国も北朝鮮も国際的なリスクを負ってまで日本に戦争を仕掛ける理由がない。
 かといって、日本だけが平和を享受できる時代でもないことは、誰の目にも明らかです。ならば、アジアという地域全体の平和と発展を考えることを真剣にやったほうがいい。おかしな状態でずっと続いてきた自衛隊という仕組みも、海外協力隊のような形に変えて、援助や支援のときだけ海外に送るようなシステムにするほうが、もっと貢献もできるし、何より、日本という国をアメリカと同じに扱われなくて済みます。イラクの人たちには、日本人は真面目で働き者で、いい製品を作る能力があるという評価が高かったけれど、サマワへの派兵がその評価を覆しました。「なぜアメリカと行動を共にするんだ」と現地の人たちから言われることが増えました。それこそ、日本の国益に反することです。それが現場感覚です。戦争を知らない世代ばかりになっていく日本だからこそ、協力隊のような組織で現場感覚を身に着けたほうがいいと思います。
 戦争というものは、全体を幸せにしようとして行うものではありません。自分の国、自分のコミュニティ、そういった一部の利益を守るためにすることはあっても、全体幸福のための戦争などあり得ない。極論すると、一枚のせんべいをめぐって複数の子どもが奪い合うようなものです。資源戦争も、宗教戦争も、同じ構図です。一枚のせんべいを等分すれば、争いはなくなります。しかし、僕の見てきた現実世界は、等分する発想などなくて、誰かが総取りしようとする。しかも、総取りできたとしても、今度は、その総取りした国やコミュニティの内部に対立が生じて、また総取りのための争いが行われる。話し合いで解決できずに、殺し合いにまで突き進んでしまう。
 日本にいると、それほど感じないかもしれませんが、話し合いで解決することのできない価値観の違いを僕はずっと感じてきました。「立っている土俵がまったく違う」と感じる人が確実にいるんです。宗教的価値観の違いから「何が正しいか」がまったく異なる世界。そこでは話し合いが成立しない。そうなると、もう人間には武力での争いを避ける手段がありません。いくら話し合いが成立しないからといって、武力で相手を抹殺してしまうことにはつながらないだろう、というのがわれわれ日本人の基本的な感覚だと思うのですが、過激派と呼ばれる宗派の人たちの間ではそれも正当化されています。価値観が違うというのは、それくらい違いがあるということです。

■平和でありながら日本に閉塞感漂う理由

 平和という定義はむずかしいけれど、一人ひとりに自由と権利が保証される状態は、平和でなければ成立しないと言うことはできます。そして、保証された自由と権利が実際に実行できるのか、ということが平和のバロメーターであるとすれば、日本は平和であると言っていい。
 じゃあ、その平和な日本で閉塞感が感じられるのは、なぜなのか。僕が思うのは、国としてはこれだけ国際的になっているにもかかわらず、国民一人ひとりは未だに「鎖国」を続けているからではないでしょうか。地理的要因もあり、移民政策や先ほどの日米安保などの政治的要因などもあって、日本はビニール・ハウスの温室の中で成長し続けることができた。これが安心感にもなっていたと同時に、閉塞感の原因にもなっていた。
 ところが、劣化してきたビニールハウスに徐々に穴が開き始めてきた。冷たかったり熱かったりする外気が入り込んできて、ハウスの中の植物は右往左往している。それが今の日本。しかし、世界の現実はそういうものですから、今、日本は過渡期を迎えているとも言えます。それに対して、ナショナリズム的に穴をふさごうとする動きも出てくるでしょうし、異文化を受け入れて慣れていくべきだという意見も出てくるでしょう。その両方の動きに挟まれた居心地の悪さを日本は体験し始めているのかもしれません。
 僕は平和というものは、「目的」というよりも、次の段階へ進むための最低条件なのではないかと思っています。日本には、それはすでに備わっているとも思います。沖縄と本土では平和に対する温度差があるので、コミュニティ単位として見たときの条件は整っていると言ったほうがいいかもしれません。
 ただ、この場合の平和は、物質的、肉体的な平和という意味です。一方、精神的な平和という問題もある。毎日砲弾が飛び交い、生きるか死ぬかという状況の中にいるわけではないとしても、自分の心が平和でなければ安心感はありません。しかも、心の中の平和というのは、人それぞれです。
 内戦が続いているような地域がまず最低条件として求めているのは、日本がこれまで培ってきた物質的、肉体的な平和です。しかし、それが確保されていても日本人の精神的な平和には必ずしもつながっていない。戦後目指してきた物質的平和、肉体的平和は確立されたが、精神的平和の追求を怠ってきたのではないかと思います。
 今の中国にしても、今月はがんばって冷蔵庫を買おう、来月は車が買えるようにがんばろうという意識はものすごくある。日本も五〇年代から六〇年代あたりはそうだったと思います。そういう時期は、物質的平和と精神的平和がある程度一致していたわけです。だから、今の中国にもパワーがある。しかし、物質的平和だけが飽和し精神的平和を置き去りにしてきた日本は、今になって両者のバランスが崩れてしまった。それが閉塞感と結びついているのかもしれません。

■アメリカを追う日本も弱いものを餌にし始めた

 僕は、アメリカでも、リベリアでも、インドでも、否応なく日本人ですし、日本人として日本を見てきました。そして今、この国が没落していく様子がはっきりと分かります。具体的には、日本は弱肉強食社会に向かっています。中にいる人たちに、その実感があるかどうか分かりませんが。
 良かったのかどうかは別として、日本は集団で行動してきました。その分、個性を潰すようなこともあったけれど、弱いものをみんなで守ってきた一面もあった。それが崩れてきた。もはや、弱いものを餌にして強いものが生きていく時代にまでなっている。まさにアメリカのようです。経済を追いかけていくと、必然的にそうなるのでしょうか。お金がなければ何もできない、生きていけない。老人が「おにぎりが食べたかった」と餓死していくような、信じられない国になっている。
 今、僕が住んでいるインドは、僕の知る限り世界で最も貧富の差が激しい国です。これほど経済的な格差というか幅の広い国は、ほかには見たことがない。しかし、インドのユニークさは、アメリカの比ではない貧富の差を抱えつつも、そうした人々が共存しているということです。
 世界に名だたる五つ星のホテルがある。と、その向かいの歩道にはテントを建てた家族が何十と住んでいる。そんな光景が当たり前の国です。もし、これがアフリカだったら、貧しいほうの人たちは、「あいつらが搾取するから、自分たちはこんなに苦しいんだ」という発想になるはずです。アフリカで路上犯罪が頻発する原因は、そういう“ひがみ”に起因する部分もある。しかし、インドではあまりそうはならない。法的にはすでに廃止されているカースト制が今でも生活のなかに根付いているからでしょうか。貧乏は貧乏で、それを自分の運命として受け入れてしまっていうようなところがある。どんなにがんばっても、自分は富裕層にはなれないのだと分かっているからです。ですから、交差点に車が止まると窓にベタッと子どもたちの手が張り付いてきて物乞いをするような国ではあるけれど、路上犯罪も非常に少ない。インドでは経済格差そのものが人々の対立原因となることは他国に比べて少ないと思います。
 アメリカにいたときの日本の見方と、インドにいて日本を見るときは違いがあります。アメリカにいたときは、アメリカと日本の関係を一度フィルターとして通過させて日本を見ていました。安保の問題も、憲法九条の問題も、すべてそうでした。つまり、それほど日本は自分がいるアメリカと密接なんだと感じていました。より正確に言うと、アメリカの酷さも居心地の悪さも不満も日常的に感じている自分がいて、そのアメリカにくっついていっている日本という国が残念だし情けなかった。でも、今はそういうアメリカの呪縛から僕自身が解き放たれているので、日本は楽園に見えたりします。物質的な意味でですけれど。

■生きていることの実感を人間はどこで自覚するのか

 これまでにいくつかの紛争地を訪れました。そこでは夢中で撮ってきたので、「怖い」と思ったことはあまりありません。「怖い」というニュアンスとは少し違う「これは危ないかもしれない」という感覚は何度かありました。
 撮っているときは、何も考えていません。「ひどいなあ」とか「かわいそうだ」といった感情はあるけれど、カメラを向けるときは、目の前にあるものを記録するという意識しかありません。リベリアの内戦では、死があまりにも身近にあって、五分後には自分もそこに横たわっているかもしれないと思いましたし、自分が「いま生きている」ということをひしひしと感じました。死と表裏一体となっている生を感じる場所、それが戦場でした。それは、おそらく僕だけの感覚ではなくて、戦場へ取材に行くカメラマンには少なからずあるようです。中には、そういうところでないと自分の生きている実感が持てなくて戦場に取り付かれた「ウォー・ジャンキー」と呼ばれる人たちもいます。
ベトナムでは、三十五年経った今でも戦争が終わっていない人々に接しました。米軍の撒いた枯れ葉剤の影響で子供を十二人亡くし、生き残った子供2人も脳性麻痺などの症状に苦しんでいる、という家庭もあった。
ハイチでは、クーデター後の暴動で略奪行為がおこり、病院の死体安置所には死体が山積みにされていました。その死臭には息が詰まるほどで、五分しかいなかったのに髪の毛から靴まで匂いが染み付いて、しばらく消えませんでした。
死んでから剥がされたのか、剥がされてから死んだのか分からない、顔から上の皮がない死体が路上に放置されていたり、よくもこんなひどいことができるな、というものを目にするたびに、人間だけだろう、動物はやらないだろう、と思います。そういうときには、ふと「性悪説」になってしまうけれど、でも「性善説」を信じたいという気持ちはあります。
 よくぞ砲弾に当たらずに生きて帰れたなと思う経験もあります。逆に、たまたまそこにいただけで即死した兵士もいました。リベリアの貧しい家に生まれたというだけで少年兵になった子どもとも出会いました。生きていることの中に「運」というのが確かにあるなと感じます。(了)